俺には勉強しかない

140字のその先

弱者を弱者たらしめるもの

「嬉々として生きる意欲に満ちた彼女の顔が目に浮かび、常に敗北させたかったのはこの意欲そのものであったとわかった。価値あるものをその価値ゆえに破壊し、償いえないおのれの罪悪から目をそらすために殺すという誰もが憎んでしかるべき殺人鬼の顔として、彼は自分の顔を見ていた。」

出典:アイン・ランド(2015)『肩をすくめるアトラス 第三部(AはAである)』アトランティス(726p)


たぬかな氏主催の弱者男性合コンと、それに対する感想を見て、「弱者男性って一体なんだろう」と思ったので、自戒を込めて自分なりに整理した。

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この合コンの男性参加者は、厳しい(?)オーディションを経て、
困難を抱える男性であると主催者側から認定された人達である。

しかし、多くの人達が言うように、身なりを整えて、顔を全世界に晒して女性と向き合う彼らは、「弱者男性」には見えなかった。


では、弱者男性とは何なのか?と個人的に疑問を持った。

そして、X上で弱者男性合コンに対する自嘲的かつ批判的なコメントを眺めていたら、
自分が何に「弱者男性らしさ」を感じるのかが、少しずつ分かってきた。


弱者を弱者たらしめるものは「弱さ」ではない。

能力の低さ、社会的地位の低さ、コミュニケーション能力の低さ、恵まれない容姿、女性経験の欠如、低収入、低身長、低学歴、髪の毛の薄さ、わきが、アトピー、障害、その他の社会生活を困難にする持病…

これらの弱さをどれだけ抱えていたとしても、その人が弱者男性であるとは限らない。


弱者を弱者たらしめるものは、弱さではなく、攻撃性である。

つまり、他人が持っている才能の輝きを、困難や不利な条件に立ち向かう勇気を消し去りたいという欲求こそが、弱者を弱者たらしめる。


他者の才能と勇気を呪う男は、間違いなく弱者である。
自分の弱さと、弱さに由来する苦しみ以外に、自分の存在を説明するものを持たないからである。


また、彼らの攻撃性は、才能と勇気を持つ者への目的のある、明確な殺意に基づくものではないと個人的に思う。

才能と勇気を持つ者を攻撃する男は、自分が持つ才能と勇気を始末し終えている。
その2つを失うことは生きる気力を失うことと等しく、それがあまりに苦しい行為なので、
誰かを攻撃することで自分の苦しみをどうにか処理しそうとしているように思える。
その在り方は、完全に生きても死んでもおらず、目に付いた動くものに闇雲に襲い掛かるゾンビに近い。


昔、ある僧侶が「自己卑下は殺人よりも罪が重い*1と言っていたのを覚えている。
殺人はたとえ犯してしまったとしても、量刑を受けて自分の行いを反省し、更生する機会があるが、
自己卑下は誰も咎めないため、それを罪だと思わずに一生やり続ける可能性が高いからだと説いていた。

これはいささか過激すぎる考えだが、個人的には納得できるものだった。
自分が持つ才能と勇気を台無しにすること以上に苦しくて罪深いことはないと私も思う。


それでは、弱者男性はどうすればいいのだろうか?
自分の中にある才能と勇気を失い、それを持つ者への薄っすらとした殺意を自分が持っていることに気付いてしまった後に、出来ることはあるのだろうか?
そういう人達を癒し、奮い立たせる言葉があるのだろうか?


最近はそれを考えて探している。

*1:ここで言う罪とは法律や道徳に基づく一般的な意味での罪ではなく、宗教的な意味での罪である。自分の理解が間違っているかもしれないが、仏教では自分の心を汚すことを罪と捉える。